「!」
名前を呼ばれた気がしたのは、きっと気のせいに違いない。
そうあって欲しいっていう、アタシの願望が見せた幻 .
「っ!」
つま先が引っかかったと思った次の瞬間には、体が傾いで、咄嗟に地面に手を突き出した。
「痛っ・・・」
舗道の僅かな段差に足をとられたらしい。情けなく転んでしまった。
見れば、ぶつけた膝は青く内出血を起こしている。
ズキズキする脚の痛みとは別に、ヒリヒリする痛みに手を返してみれば、地面に思いっきり突いたせいで掌が擦り剥けて、見ているうちにジワジワとそこから血が滲んできた。
「・・・馬鹿じゃん、転ぶなんて・・・」
周りに誰もいなかったのが幸いか。おかげで無様な姿を見られることもない。
ズキズキする脚とヒリヒリする掌の痛みに、小さく笑いが込み上げた。
「はは・・・めっちゃ痛いし・・・」
呟いたら、感じないようにしていた心の痛みまで、今更襲ってきて、自分の顔が歪むのが分かった。
「もぅ・・・・・・馬鹿・・・」
ポタ、ポタと乾いたアスファルトに染み込んでいく水滴が、滲んだ。
「・・・キースの、馬鹿・・・」
全部全部、彼のせいだ そう胸の中で呟いても、頭の中は最悪の瞬間を繰り返していて、涙は全然止まりそうにない。
見知らぬ女性、親密な雰囲気 そして、焦った彼 .
彼と、綺麗なその女性が一緒にいたことよりも、アタシが入っていけないような雰囲気だったことよりも、彼がそんな顔をしたことが一番ショックだった。
アタシが現れたことへの驚愕と当惑、そして焦燥 どうしてそんな顔をするの?と訊けるほど、アタシは鈍くない。
確かにアタシも悪かったんだろう。
今日は会えないと言ったのに、予定よりも随分と早く終わった仕事に、連絡も入れず突然彼の家へやってきた、アタシにもきっと非がある。
“喜ばせたい”なんて、“驚かせたい”なんて、そんなことを勝手に考えて、勝手にウキウキと心躍らせたアタシが悪い そう、きっと、アタシが馬鹿だったんだ。
彼が、喜ぶことを疑わないでいたアタシが馬鹿だったんだ。
彼が、同じ気持ちを抱いてくれていると思っていたアタシが馬鹿だったんだ。
彼が、アタシのことを一番好きでいてくれていると信じていたアタシが馬鹿だったんだ。
だって、彼は・・・・・・彼は、アタシなんかには勿体ない、似合わない、不釣り合いだ。
本来なら、絶対に、人生は交わらなくて。
彼はヒーローで。
アタシはただの一般市民で。
絶対に、恋人同士になんてなれない。
なったような錯覚をしていただけ。
現実の“絶対”は絶対だった そう、それだけのこと。
似たり寄ったりの昨日と明日を繰り返す、彼と会う前の生活に戻ればいいだけのこと。
「愛とか恋とか、面倒じゃん? そういうの、別に求めてないし」なんて、彼に会う前みたいに言って嗤えばいいだけのこと。
週末に予定のない、誰かのことで心乱されたりしない、自分のためだけに時間を使う、彼に会う前のアタシに戻ればいいだけのこと。
なのに、“それだけのこと”が、今はとても出来そうにない。
「・・・ははっ、ほんと、馬鹿だ、アタシ・・・・・・」
思わず嗤った。
だって、“彼に会う前のアタシ”になんて戻れるわけがない。
だって、アタシはこんなにも彼のことが、キース・グッドマンのことが好きで好きでしょうがないんだから。
諦めた方がいい 頭の片隅で響いた声に、苦笑して頷く。
そうする、諦めるよ。
彼にとっての“唯一”になることを。
それはきっとアタシには無理だから。
ヒーローの彼の周りには、きっと魅力的な女性が溢れているに違いないから。
アタシよりも彼のことを理解できる女性や、アタシとは比較にならない優しい女性、アタシなんかと比べるのも申し訳ない綺麗な女性 そんな、彼と一緒にいたさっきの女性みたいな人が沢山集まってくるだろうから。
アタシなんか、とても敵わないから。だけど .
「ッ!!!」
声と一緒に、彼の手が二の腕を掴む。
アタシは、未だ地面に座り込んだままだった。ホッと彼が息を吐いた。
「よかった、どこまで行ったかと・・・・・・」
言葉が訝し気に小さく消える。スッと彼の気配が動いた。
「・・・・・・、怪我をしているじゃないか・・・転んだのかい?」
さっきよりも随分と近くで聞こえた声に顔を上げれば、同じ目線に彼がいた。
青い瞳がアタシを見つめていた。
「・・・大丈夫かい?」
血と土とで汚れたアタシの手をそっととる。
「痛むかい? ・・・いや、痛いはずだ。私の、せいだね・・・」
呟いた彼の顔は、とても辛そうだった。
アタシの傷なんかより、もっともっと痛そうだった。
「・・・・・・・・・、話を聞いてくれるかい?聞いてほしいんだ」
眉を寄せて、どこか困惑したような顔で、彼が言う。
「、さっきの彼女は 」
その先を聞かずに、彼の肩におでこを押し付けた。
「?」
「・・・いい」
汚れた手が彼の服に触れないように、腕だけを使って彼を抱き寄せた。
「言わなくて、いい・・・」
「・・・」
「・・・いいから、そんなの、もう・・・・・・」
「・・・」
「・・・いいから・・・・・・もう、言わなくて・・・」
彼の手が、戸惑いながらもアタシの背中に回されたのが分かった。
「・・・・・・・・・すまない、君を傷つけたね・・・」
「・・・いいから、もう・・・・・・」
「・・・」
ごめん、と繰り返される彼の声に、首を振る。
“アタシだけ”じゃなくていい。
嘘でも、錯覚でもいい。
騙されてるとしても、いい。
ぎゅっと抱きしめてくる彼の腕の中で、もう一度「いいよ」と呟いた。
(これが、彼にとっての永遠の愛じゃなくても・・・・・・)
泣いても笑ってもくれないのね
>>> だけど、アタシは、それでも、彼のことを愛しているから
アトガキ
Photo by clef
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