【あいつが、意識を取り戻した】

  アーサーからその連絡を受けたとき、自分が何と答えたのか記憶にない。
  そう、とか       当たり障りのない言葉を短く返したのだろう。

  【・・・だけど、これ以上回復することは難しいだろうって】

  誰もいないロッカールームを無性に寒々しく感じたのを覚えている。
  触れた金属の冷たい感触と、一日の終わりに浴びたシャワーの熱が逃げていく気配       何故かそんなことだけをよく覚えている。

  【医者の見立てでは、もうそんなに長くは生きられないだろう、って・・・・・・】

  長く生きる      .
  あの男は、そんなことを望んでいたのだろうか?       不意に浮かんだ疑問に、僅かに苦笑した。
  決まってる。あの男は無自覚に無慈悲で、何よりも貪欲な人間だったのだから。

  【社は、もうあの男のものじゃないし・・・・・・姉貴も僕も、もうあの男に縛られる必要はないんだ・・・】

  全てを欲しがった男。全てが想い通りになると思っていた男。他人にも心があることが分からなかった男       今更思い知ってももう遅い。
  本当は何も手に入れられなかったと。

  【・・・・・・・・・会うかい?】

  そこに滲んだ気遣いに、思わず笑った。
  今更、今更、今更       湧き上がる想いに唇の端を歪めて、ゆっくりと口を開いた。

  「ええ。今から向かうわ」
  冷え切ったロッカールームによく合う声で、はそう告げた。











朽ちゆく花を誰かに重ねて











  「・・・・・・・・・大丈夫?」
  「何が?」
  「・・・・・・・・・いや、いいんだ。僕はここで待ってるから」
  アーサーの言葉に、にっこりと微笑んで頷いてみせる。

  アーサーが何を言いたかったかなんて、本当は分かりきってる。
        一人であの男と会って大丈夫?
        僕も同席しようか?
        正気でいられる?
        銃は持ってないよね?
        またあの男を撃ったりしないよね?
        また自殺しようなんてしないよね?       そのどれもがアーサーの胸の内だろうが、今となっては全て意味がない。
  だから、もう大丈夫だ。

  部屋の中に踏み込んで、後ろ手でゆっくりと扉を閉める。
  あの時とは違い、月明かりの代わりに、朝の柔らかな光が溢れていることに小さく安堵した。
  少しでも違いがあった方が救われる気がする。

  扉の開閉に反応したのだろう。ベッドの上の人影が、緩慢にこちらを向くのが分かった。
  条件反射のように、体が緊張する。

  「あぁ・・・・・・」
  ゆっくりと男の口から吐き出される音に、全神経がピリピリと反応する。
  そんな自分に舌打ちが漏れそうになる。

  「・・・来てくれたのか・・・・・・アンジェ・・・」

  アンジェ       それは自分の名前ではない。
  それは、母の名前だ。
  男が以前と同じく自分を母の名で呼んだことに、背筋を悪寒が這い上がる。
  何も変ってなどいない。
  この男にとって、自分は血の繋がった娘―レジーナ・ではなく、秘書で愛人だった女―アンジェ・だ。

  「傍へ、アンジェ・・・」
  未だ扉の前に佇んでいた自分を、違う名で呼ぶその声に、無理矢理視線を上げてベッドへと近付く。

  心臓の鼓動を伝える規則的な光源も、空気を送る機械音も、相変わらずそこにある。
  管に繋がれ、機械に生かされている       それは同じなのに、そこに意識があるだけで、何故もこう強く見えるのだろうか。
  何故、死の匂いが薄れるのだろうか。
  「アンジェ、アンジェ・・・・・・」
  名を繰り返す彼の横に立ちつくして、その姿を見下ろした。
  圧倒的なチカラを持っていたはずのその手は、痩せて筋張って見えた。
  威圧的なチカラを湛えていたはずのその目は、さ迷うばかりで以前の傲慢さを感じさせない。
  それでも。やはり。どうしたって。

  「アンジェ、傍に・・・・・・手を・・・・・・」
  手を握ってくれと繰り返す男の言葉とは裏腹に、男の手は動かない。
  頭を撃たれた後遺症か、または筋力の衰えか       もう思うようには動かせないだろう。
  そのことに、ようやく安堵する。

        もうあの男に縛られる必要はないんだ      .

  アーサーの言葉を思い出した。
  その通りだ。
  自分たちは、もうこの男の支配から解き放たれるべきだ。

  「アンジェ、手を・・・・・・君が必要なんだ、アンジェ・・・」
  繰り返される言葉に従って、ぎこちなく自分の手を重ねた。
  握ったりせず、ただ重ね置いた。
  自分の手は冷え切っていたが、男は安心したように顔を緩ませた。
  「アンジェ、アンジェ・・・・・・」
  安心したように、どこか甘えさえ含んだ声音でそう自分を呼ぶ男に、は観察するような視線を向けた。

  どうやったら自分を母と思い込めるのだろう?
  はっきり言って、自分と母は似ていない。
  自分の持つこの特徴的な色彩は、目の前の男のものと同じだ。
  淡い金色の髪も、冷たい紫色の瞳も。
  色彩だけじゃない。
  人を冷たく観察する眼差しも、他人を信用できない性格も、人を思いやらない傲慢さも、醒め切った人生観も、まるで鏡に映したように目の前に横たわる男と同じものだ。
  その名の通り、天使のようだった女と自分は似ても似つかない。

  「・・・何があったか、何をしたか、覚えてないの?」
  「? どうしたんだ、アンジェ・・・・・・あぁ、私のことを心配してくれているんだね・・・大丈夫だ、心配ない・・・」
  安心させるかのように微笑を浮かべたその顔に、心のどこかが悲鳴を上げるのを聞いた気がした。

  存在を認めて欲しくて努力していたのは、もう遠い過去の記憶だ。
  に強引に引き取られ、今まで目にしたこともない専門用語が並ぶ資料の山を必死で読み込んだ。
  の者なら出来て当然と、高度な知識を要求される勉学にも励んだし、肉体の強化訓練にも必死で喰らいついた。
  行ったこともない国の言葉を教養だからと何ヶ国語も習得させられたし、礼儀作法も一から全て叩き込まれた。
  全て全て、今目の前にいるこの男に認めて欲しかったからだ。
  誉めてもらいたかったからだ。
  その笑顔を向けて欲しかったからだ。
  自分の父親なのだから、努力すればいつかそれを与えてくれると、振り返ってもらえると信じたかった。
  けれど、この男はそれを与えてくれなかった。テロ組織に誘拐されるまで、一度も自分を見てくれなかった。
  救い出されてに戻っても、それは変わらなかった。
  ただ       二人っきりになった時だけ、自分を視界に留めてくれた。娘・レジーナとしてではなく、アンジェとして、だったが。

  「アンジェ、私のアンジェ・・・・・・」
  最初にそう呼ばれたときは、衝撃を受けた。
  だけど、それでもいいと思ってしまった。
  思ってはいけなかったのに。
  けっして、それを許してはいけなかったのに       人に認めてもらえることが、こんなに喜びを与えてくれるなんて知らなかった。
  たとえ、それが歪んだものだったとしても      .


  「アンジェ、君はいつも美しい・・・私のアンジェ・・・・・・」
  どこまで本気なのか       それを見極めたくて、はじっと男を観察し続けた。

  かつては確かに、意図的にアンジェと呼んでいた。
  レジーナだと知っているくせに、分かっているくせに、全てを誤魔化すかのように、母の名前で自分を呼んだ。
  だが、今は?
   この男は、今も悪意を持って自分をアンジェと呼ぶのか?


  「アンジェ、私の傍に、傍にいなさい・・・大丈夫だ、すぐによくなる・・・・・・」
  穏やかな笑みを浮かべる男に、突発的にどす黒い怒りが湧き上がった。
  溢れ出しそうになったそれを、は咄嗟に押さえ込んだ。

  限界だった。
  無理だと悟った。
  対話こそが分かりあう唯一の道だと信じたかった。
  だが、限界だ。
  相手を思いやることで判りあえるのだと信じたかった。
  だが、無駄だ。
  人は変われると信じたかった。
  だが、無理だ。
  自分がこの男と和解することはないし、この男を理解することもないし、許すこともないに違いない。

  堪えきれずに呼吸を乱したを心配するかのように、男の眉が寄せられる。
  「アンジェ、大丈夫か? 無理をしては、いけない・・・大事な、体だ・・・・・・子供にも、障る・・・・・・」
  「      何を・・・・・・」
  男の口から出た言葉に、思わず息を呑んだ。
  を労わるような視線。動けば手を握り締めたに違いない。
  ぞっと背中を悪寒が駆け上がる。

  「私たちの、子供だ・・・男の子なら、アーサーと・・・女の子なら、レジーナと・・・・・・」

  頭から冷水を浴びせられたような気がした。
  それはもう20年以上前の、自分が生まれる時の話ではないのか?
  何故今、そんな話をする?
  それより      .

  「どうして、知ってた・・・? アタシが生まれることを・・・・・・?!」
  の言葉に男は不思議そうに眉を寄せた。

  「アンジェ、君が私に教えてくれたんじゃないか・・・・・・子供が、出来た、と・・・」

  男が口にした言葉に、叫び出したい衝動に駆られた。
  今の今まで、この男は自分の存在を母が他界するまで知らなかったのだと思っていた。

  たった一人の保護者が死んで、兄貴と自分は行き場を失った。
  親族を調査した公的機関から、この男は自分たちの存在を知ったのだと思っていた。
  自分を身篭った母は、何も告げずにこの男の元を去ったのだと思っていた。
  今まで、ずっと      .
  なのに、この男は知っていたと言うのか?! 母が告げたと言うのか!!?
  信じられなかった。
  信じたくなかった。

  衝撃に顔色を失ったに構わず、男は穏やかな微笑を浮かべた。

  「楽しみだ・・・とても、楽しみだよ・・・・・・」
  そう呟きながら、男は静かに瞼を下ろした。

  微かに、だが確かに上下する胸に、男が今この瞬間も生きていることを強く感じた。


  は、ぐっと唇を噛み締めた。

  どうして今、意識が戻ったのか。
  どうして来てしまったのか       すべて運命だというのなら、なんという皮肉だろう。

  重ねられた手が、男のぬるい体温を伝えてくる。
  その温度を感じたまま、は眠る男に顔を近づける。
  呼吸音が聞こえるほど近付いて、一度目を閉じる。
  自分の心を確かめるように       ゆっくりと目を開けて、は男を見つめた。

  「・・・・・・大っ嫌いよ、今も、昔も・・・・・・」

  重ね置いていた手を一度だけぎゅっと握る。
  年老いた手は、記憶にあるよりも弱く感じた。

  「・・・・・・でも、アタシはもうアンタを殺せない・・・・・・」

  変わらず繰り返す呼吸音を確認して、はゆっくりと体を離した。
  握っていた手を外して、部屋を後にする。
  躊躇うことも、足を止めることも、振り返ることもせず、は父親に別れを告げた。


  「永遠にサヨナラよ・・・・・・父さん・・・」
















     serenade / 喪失 より 「朽ちゆく花を誰かに重ねて」

Photo by Microbiz

ブラウザバックでお願いします。