「・・・・・・珍妙な世の中になったもんだ・・・」
  デスクの上に置かれたそれを視界の端に留めながら、張維新(チャン・ウァイサン)は紫煙を吐き出す口元を僅かに歪めたのだった。






  「どうした?
  部屋に入るなり、くんと空気を嗅いで脚を止めたに張(チャン)が尋ねた。
  さっと部屋中に視線を這わせてから、が怪訝そう眉を寄せた。

  「・・・匂い」
  「ん?」
  殺し屋と言う職業柄、死の匂いには敏感なだ。
  血の匂いでも嗅ぎ取ったのかと思ったが、今日はまだそんな日常的場面には珍しく遭遇していないことに考え至った。
  だとすると、が嗅いだ匂いというのは      .

  「・・・甘い匂いがする」
  「あぁ・・・これのせいだな」
  言ってデスクの上に置いてあった箱を手に取り、に向って、そいつを放る。

  「これ?」
  箱を開けて、さらに怪訝な表情を強めたに、張は飄と肩を竦めた。

  「さっき彪が持ってきた。俺に、だとよ」
  「・・・彪?」
  分からないと眉を寄せるに、張は紫煙を燻らせながら、呆れたように笑った。

  「正確には、熱河電影公司(イッホウディンインゴンシ)の女性社員有志一同より、らしいがな」
  「・・・・・・・」
  「知ってるか? 日本には変わった習慣がいくつもあるんだがな、それもその一つだ。
   2月14日に、女が好意を持ってる相手にチョコレートを贈るんだとよ」

  言って、渡されたときの自分の間抜けっぷりを思い出す。
  女性社員たちから渡してくれと頼まれた      (ビウ)がその一言をさっさと言わないから、もう少しで落ちた灰でスーツに焼け焦げを作るところだった。
  気色の悪い想像に、それが杞憂だったと分かった後も、しばらくは引き攣った笑いしか浮かべられなかったほどだ。
  そのときのことを思い出して、苦笑を浮かべ、張はの手元を指し示す。

  「今じゃ、恋人に贈るだけじゃなく、知人の男性に義理であげたり、友人同士で交換したり、
   世話になった上司に謝礼目当てで渡したりもするらしい。どうやら、そいつもその手のものらしいんだが」

  張も日本におけるバレンタインデーなるものの存在自体は知っていたが、まさかロアナプラのこんなところでその習慣にお目にかかる日が来ようとは、まったく想定外だった。女のイベント好きは、世界共通らしい。


  「・・・チョコレート?」
  箱の中に収まるハート型の黒い物体をじっと見つめて呟いたに、張は高級煙草(ジタン)に火を点ける。

  「元々は宗教色の強い祝日なんだが、寺でクリスマスパーティーをするような国だ。
   気付けば菓子企業の策略であっという間に恋人たちの一大イベントだ。
   ・・・まぁ、最近じゃ、チョコレート以外のものを贈ることも増えてると聞く」
  「・・・・・・へぇ」
  興味無さそうに相槌を打ったが、ようやく扉の前から動いた。

  やっと近付いてきたに、張は悪戯気に唇を持ち上げる。
  「何だ、。俺が、香水臭いコールガールをこの部屋に呼んだと?」
  「・・・考えすぎ」
  「だとすると、俺がそいつを貰ったことに腹を立ててるのか?」
  「・・・冗談。維新が自分で言った、義理だ、って」
  ふんと鼻で笑ったに、張は肩を飄逸に竦めた。

  妬いてくれているのかと勘繰ったのたが、どうやらにそこまで期待するのはまだ早かったらしい。

  再び紫煙を味わおうと手を伸ばした張のその目の前に、ガチャンと長方形の箱が放り出された。
  随分と重い音を発したその箱の横に、張が渡したチョコレート入の箱を転がして、の口がいつも以上に平坦な声音を発する。


  「維新が言うところ『知人の男に義理で渡す』ものだけど」


  「・・・・・・・・・お前が?」
  指の先の煙草から灰が落ちるまでの時間を全て使って、張はそれだけ言った。

  「シャンホアから『返礼は3倍返、怨恨は100倍返』って教わった」
  そう言って視線を逸らせたの前で、乱雑なリボンを解き、歪んだ包装紙を剥がす。


  「・・・これを、お前が?」

  「チョコレートなんて、維新には似合わない」
  憮然と言い放ったに、張は表情を緩めた。
  確かに、これ以上自分に似合うものはないだろう       ベレッタの弾丸。
  行儀よく箱の中に並んだそれを見ながら、張はもう一度に尋ねる。

  「お前が、わざわざ?」
  「・・・・・・義理だし」
  不機嫌な表情を浮かべたままのに、張はサングラスの奥で笑った。

  は、ナイフ類を得物とする殺し屋"黒狼"だ。
  目的が"殺し"である以上、目的のためには無ければ銃も使うだろうが、有る限り黒狼は刃を振るう。その身の牙さえも刃として振るう       それが黒狼だ。
  そのが、銃弾を購入するとは! これを驚かずに、何に驚けというのか。

  仏頂面のが不機嫌に銃弾を注文し、不満気にそれを手に塒に戻り、苛立たし気に包装し、さらに不恰好なリボンまで結んだと想像すれば、これほど楽しいことがあるだろうか。


  「バレンタインのことは、シャンホアから聞いたのか?」
  尋ねる声が笑いを含んでいて、は張の問いには答えずに、ふんと顔を背けるだけだ。
  そんなに、張は胸中に笑いを押し隠して放り出されたままだった、チョコレートの箱を示した。

  「食ってもいいぞ、
  「維新が貰ったものなんだから、維新が食べるべきなんじゃ?」
  ジロリ睨まれて、張は我慢できずにとうとう笑いを漏らした。

  「何だ、。やっぱり、妬いてるだろ?」
  「冗談。義務の話をしただけ」
  平然と肩を竦めたに、張は再びチョコレートの箱を放る。

  「だったら、半分食べてくれ。俺一人では多すぎる」
  「だから、何で私が・・・」
  「俺のもんは、お前のもんだ。そう言うことにしておかないか?」

  口をへの字に曲げたまま、がチョコレートをデスクに置いて、不承不承といった様子で溜息を吐く。

  「・・・・・・分かった」
  言い終わると同時に、手品のように現れたナイフが、の手元で一閃した。

  「・・・・・・・・・これでいい?」

  真ん中で綺麗に真っ二つに切り取られたハートの片割れを口に放ったが、残りを箱ごと張に差し出す。

  感嘆と苦笑の混じった顔でその箱を受け取って       張は片眉を持ち上げた。

  「・・・甘すぎ・・・」

  窺うように見ても、は口の中のチョコレートの味に眉を顰めているだけで、知らん顔だ。


  本当は妬いてるんだろ?       もう一度、確信を持って、その質問を胸中だけで呟いて、張は飄と肩を竦めて、チョコレートに手を伸ばした。
  元の形が何か分からないほどに切り刻まれた、チョコレートの破片に。











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