星は見えない いつものことだ。
安っぽい看板が摩天楼を覆っている。
その隙間から、明るすぎる月が見下ろしている。
「・・・維新(ウァイサン)に会いたい・・・・・・」
月に向かって呟いて、は踵を返した。
手にしたナイフから、一筋、真っ赤な滴が流れ落ちた。
Tepid Water
左手を軽く払って、武器(エモノ)に付着していた血痕を落とす。ハーフパンツで、適当に撫じるように一拭きし、これまた適当にパンツのポケットに滑り落とす。
右手に持ったままのナイフに目をやった。こちらも、血でべっとりと濡れている。
着ているTシャツの比較的綺麗な部分を選んで、そこでしっかりと拭き取った。
丁寧に、刃から柄の部分まで 一度拭いただけでは脂までとりきれず、再び別の部分でしっかりと拭う。
「・・・・・・」
月明かりに翳して、曇りがないことを確認して、はようやくナイフを腰の後に収めた。
お気に入りのナイフだ。
絶対に、粗末に扱って使用不能にはしたくない。それ故の、念の入れようだった。
他の武器とは違う。
他のナイフは、使い捨てのようなものだ。
刃が曇って使えなくなれば、新たなものを調達するだけ。別段、メーカーにも拘りはない。安くて使えれば、何だっていい。人を殺すための刃に、好いも悪いもない。切れれば、殺せれば、それでいい。
トイレットペーパーやボールペンと一緒。要り様なら買って、使えなくなれば捨てるだけ。
だが、今腰の後にある一本だけは違う。これだけは、代えるものなどありはしない。
大切なナイフだ。付着した血と脂を、着ている衣服で拭き取ることに躊躇などない。
元々砂埃まみれのハーフパンツも、薄汚れ裾の擦り切れたTシャツも、価値などないに等しい。今更血痕で汚れたところで、何の躊躇いがあろうか。ゴミ箱に放り込んで、その辺に捨てられているものを明日も着るだけだ。
「・・・・・・・・・」
ロアナプラの、どこにでもあるような路地 その路地のの足元には、これもロアナプラでは珍しくもないものが転がっている。
先ほどまで人だったものが、二つ。
名前なんて知らない。知る必要もない。
何者かなんて興味ない。神でも構わない。
何故なんて意味もない。そんなもの有って無いのと変わらない。
今晩の"黒狼"の獲物で、今日死ぬことを他人に決められた誰かだ。それ以外に何が必要だ?
維新でさえなければいい。
三合会(トライアド)の、維新が恩を感じている人でなければいい。
死んで、維新が困る人間でなければいい。
それだけだ。それ以外に判断基準なんて存在するか?
頚動脈を一閃した。もう一人はさすがに一撃とはいかず、武器を持つ手と喉、そして腹を捌いた。
"黒狼"の狩りとしては、どうってことない普段と変わらない夜だった。
「・・・スニーカーも、駄目かな・・・」
溢れ出した血液にぐっしょりと濡れた足に、僅かに眉を寄せた。
血液を吸収した布は、あまり気持ちよいものじゃない。踏みしめれば、ぐちょりと嫌な音がした。
「・・・・・・」
履いて帰るのさえ嫌になって、は靴を脱ぎ捨てた。
地面に溜まった温い水溜りが、素足に妙に心地好い。
「・・・お腹すいた・・・」
ふっと、思った。
明日はチャルクワンの市場へでも行って、何か美味しいものを食べよう。今回の仕事の報酬が入るはずだし、そうしたら久しぶりに粥でも食べよう。そろそろ具のないヌードルというにも無理がある味のしないスープにも飽きてたところだし。
懐があったかい時くらい、ちょっと豪華に米を食べたって、文句は言われないはずだ。
決めた。明日はチャルクワンの市場で、粥を食べよう。
そう決めたら、ちょっとだけ明日が楽しみになった。
シャンホアには、「、せっかく張大哥(チャン・タイコウ)の彼女ね、奢ってもらうよろしね?」などと言われているが、自身に張の彼女になどなった覚えはない。それに、張に奢ってもらう、食わせてもらう、なんて考えただけで不快だ。
自分はだ。
そして、は殺し屋だ。
それを生業とし、人を殺して金を得て、そのお金で日々を暮らす。ずっとそうしてきた。そうすることがあたり前で、それ以外など考えられないし、出来やしないのだ。
自分は張維新(チャン・ウァイサン)の隣にいることを選んだ。だが、それは彼の女(もの)になることではない。
その役割は、張維新の歩く道を掃除することだ。張の楯となり矛となる。張が許可する限り、その隣に存在することだ。
自分の食扶持くらい自分で何とかできる。
自分のケツくらい自分で拭ける。そうでなければ、この街では生きてなどいけない。
「・・・よし。鶏粥にしよう」
冷えた水溜りから一歩踏み出す。
ねっとりとした粘度の高い水が、糸を引いた。
隠しきれていない殺気と、車の爆音が弾けた。
路地の入り口に突っ込んできた数台の車から、怒声とともに銃弾が浴びせられた時には、"黒狼"は身を屈めてすでにその距離を詰めていた。
「!!?」
「!!!」
「!ぎゃっ!!!!」
車から身を乗り出していた男の首を刎ね、先頭の車の車輪を正確に薙いで、運転席の男の眉間にポケットから抜いたナイフを突き立てて、その反動を利用して後方へ距離をとった。すぐさま体を捻って、反対側の路地口から走りこんできた男たちへと向き直る。
その背後では、操縦者を失いタイヤをパンクさせた車が暴れ、後続車とぶつかって、派手な火柱を上げている。挟みうちを狙っていた男たちは、秩序を失った車からの攻撃に、逆に頭を伏せた。運の悪い何人かが、その流れ弾に中ったらしく、地面に倒れていく。
怯む男たちに向かって、"黒狼"は地を蹴った。腰から引き抜いたナイフを揮い、その牙を剥いて、"黒狼"は男たちの命を奪う。
「た・・・助けてくれ・・・・・・!!」
腰を抜かして懇願する最後の一人の首に、"黒狼"はナイフを薙いだ。
「皆殺し、が希望だってさ」
真っ赤な血を吹き上げて、倒れていくそれに、淡々と"黒狼"は告げた。
路地裏に、動く者は自分一人 それを確認して、は明日、鶏粥が食べられることに満足した。
手元に目をやって、右手に握ったナイフに、再びべったりと血が付いたことに、小さく眉を顰める。
「・・・・・・・・・」
再び拭おうとして すでに着ているものが真っ赤に濡れていることに気がついた。
月明かりに照らし出された自分の、どこにも元の色が分かるところなどない。
皮膚も、返り血でドロドロだ。髪だって、すでに乾きかけた血痕でバリバリになっている。
全身、人の体温と同じ生温い液体を被っている。
「あぁ・・・だから・・・・・・」
微温湯につかっているような気分だったわけだ だって、張の腕の中にいた時間よりも、自分が血肉に塗れていた時間の方が長いのだから。
死神の匂いを感じなかったわけだ だって、自分が死神そのものだったのだから。自分の匂いに、人は総じて鈍感なものだから。
無性に渇きを覚えたわけだ だって、この血肉に獣の本能が疼いているから。共食いを求めて、真っ暗な闇が体の奥から一泡浮かんでくるから。
「・・・・・・やだなぁ・・・」
だが何よりも 張から貰った大切なナイフから、腐臭を放つ血肉を拭えないのが厭わしかった。
とりあえず、腕を軽く振って飛ばせる汚れだけ弾き飛ばして、は汚れたままのナイフから視線を外した。
「・・・お気に入りなのに・・・」
小さく溜息を吐いて、は頭上に輝く月を見上げたのだった。
あいうえお行で5種のお題/暗いお題より「微温湯」
日常の延長線上の、それはあまりにも普通の感情・・・・・・
ブラウザバックでお願いします。