"狼" 我ながら上手い比喩だったと思う。
情報にも聡く、頭の切れるダッチあたりなら、"狼"の正体に気付いたかもしれない だが、彼女にとって、それは何の問題にもならない。
漆黒の狼のように闇を駆ける彼女の狩を邪魔できる者がいるとしたらそれは 偶然という気まぐれな運命しかいないのだから。
Rasta Blaste (exit unnecessary)
欠伸を噛殺しながら、つまらなそうに窓辺で脚をぶらつかせている少女にしか見えないような娘が、裏家業に身を置く者なら必ず聞いたことがある二つ名を持っているなんて、誰が想像するだろうか?
(・・・熱河電影公司(イツホウディンインゴンシ)の社長室で欠伸をしている時点で、只者じゃない証拠だがな)
「・・・・・・笑ってる」
思わず浮かんだ笑みを彼女が指摘する。
「そうか?」
浮かんだ笑みをいつもと同じ飄々とした笑みへと変えて、張(チャン)は答えた。彼女は、じっと張を見つめたまま、もう一度言った。
「・・・うん、大哥(タイコウ)、笑ってた・・・仕事、面白い?」
「あぁ、クソ面白いさ。平和過ぎてふやけちまうくらいにな」
大袈裟に言った張の言葉に重なるように、ロアナプラの街のどこかで銃声が響いた。今夜もこの街は変わらず平和だ。
銃声につられたように、彼女の視線が窓の外へ流れる。そうして地上の汚れた星々を見下ろす彼女の指が、傍らに置かれたナイフの柄を滑る。
先日、張が買い与えたナイフは気に入ったらしく、彼女が持ち歩く武器の一つになっている。
残念ながら、ドレスの方はそのまま張の部屋に放置されている。張は、いつか着せてやろうと企んでいるのだが。
熱河電影公司の社長室には似つかわしくない姿 砂埃の付着した大きめのハーフパンツに、裾が擦り切れたTシャツ で、彼女は張の職場で仕事が終わるのを待っている。
「偶には一緒に食事でもどうだ?」と誘った張に対して「仕事、入らなければ」と答えた彼女に「俺が入れさせない」と返したときには、まさか自分の仕事がこんなに立て込むとは想像していなかった。
これもそれも全部、突然にホテル・モスクワから荒れると連絡があったせいだ。
今、三合会(トライアド)は抗争をやる気はない。巻き込まれて余計な犠牲を出す気もない。だからこそ、慎重にことを進める必要があった。
嵐の接近に備えて、やっておくことは多過ぎた。報告に目を通し指示を出すうちに、夕食の時間帯はとっくに過ぎ去ってしまっていた。
社長室のドアが開く気配に、張は書類から顔を上げた。
先ほどまで窓辺にいたはずの彼女が、部屋から出て行こうとしていた。
「おい!、どこへ行く?!」
気配を消したまま移動した彼女に慌てて張が声をかける。
「大哥は仕事。今夜は帰る」
「おいっ?!!」
必要最低限な言葉だけを言い、張を残して、ドアは音も立てずに閉まった。
「・・・・・・誰が、今晩お前に仕事入れさせなかったと思ってるんだか・・・」
熱河電影公司の社長兼、三合会・金義潘(カンイファン)の白紙扇(パクツーシン)である張維新(チャン・ウァイサン)の呟きは、残念ながらには届かなかった。
「・・・・・・若様はどちらに・・・」
呟いて空を見上げてみるが、薄汚れた街では見えるはずの星もなく、ロベルタは溜息を吐きたくなった。
大切な若様が攫われてから、すでに幾日も経っている。最悪な想像はしたくない。
自分は誓ったのだ。若様のロベルタでいる、と。必ず、無事に連れ帰る、と。
こんな街は大嫌いだ。ここは、金と暴力と裏切りと そして死が混ざり合っている。
こんな場所は、若様がいらして良い場所ではない。こういう場所が相応しいのは .
向かいからやってくる人影に、ロベルタは眼鏡の奥の目を細めた。
何も特別なものはない。徐々に近づいてくる人影は、ロベルタより細く小柄だ。どこにでもいる珍しくもない格好 けれど、その背中に、確かにべったりと張り付いてる馴染んだ気配 .
ゆっくりと近づいてくるその人影に向って、ロベルタもゆっくりと歩を進める。
お互いの顔がはっきりと分かる程の距離になって、ロベルタは漸く人影がまだ少女と呼んでいい年頃であることに気が付いた。
だが、そんなことは関係ない。ロベルタには、はっきりと見えていた。その少女から漂う死神の匂いが .
ロベルタも少女も、互いに目はあわせず、しかし互いを意識しながら、その距離を縮めていく。
すれ違う瞬間、空気までもが音を立てて凍りついたような錯覚を覚えて、ロベルタの足が止まっていた。
「抜くなよ」
ロベルタの背後で、声がした。
「・・・今夜は機嫌が悪いんだ」
瞬間、ロベルタは振り返って銃を抜いた。その銃口を突きつける前に、月光を纏ったナイフが、ロベルタの背後から首に突きつけられていた。ロベルタの背中を嫌な汗が滑り落ちる。
「収めなよ・・・まだ冷静でいられるうちに」
告げられた言葉に、ロベルタは力が抜けた。ロベルタが銃をぶっ放すより先に、位置を変えて首元にナイフを押し当てているこの状況を冷静なうちにと表現したのだ、この少女は。
「血の匂いは・・・キライなんだ」
そう嘯いた少女に対して笑いさえ浮かんでしまって、ロベルタは銃を収めた。首元にあったはずのナイフも、いつの間にか消えている。ロベルタは、息を吐き出した。
「・・・・・・この辺りで、ガラの悪いコロンビア人が集まるような酒場を教えていただけませんか?」
「悪いね・・・酒は飲まないんだ」
内容だけは年齢に相応しいようなことを言って、少女はロベルタに背を向けた。去っていく少女の背中には、まだ色濃く死神の香りが残っていたが、ロベルタも背を向けて歩き出した。運が悪ければまた出会うこともあるだろう .
死んで楽になりたいんなら、いつでも殺してあげるよ? .
死神が囁やいた気がして しかし、ロベルタが振り返った先、すでに少女の姿は消えていた。
立ち尽くしたロベルタの隣を、地獄から吹いてきたような生暖かい風が追い越していった。
「・・・・・・どこを寄り道していたんだ?」
張(チャン)は吸っていた煙草を踏み消して、背中を預けていた壁を離れた。足元には、すでに数本の煙草が落ちている。
の塒である安アパートの前で当たり前のように待っていた張に、の顔が僅かに曇る。慰め程度に取り付けられた鍵に手をかけ、軽い音とともに開いたドアの中へと一緒に、張も当然のことのように滑り込んだ。
「・・・・・・何、イラついてるんだ?」
普段とほとんど変わらない表情のに、しかし張は思うところがあったらしく、そう声をかけた。
暫く黙り込んでから、ようやくは口を開いた。
「・・・仕事は?」
「後は、嵐が来てから、だな」
張の口元に、いつもの笑みが浮かぶ。どんなに準備をしても、結局は始まらないと分からない。無闇に右往左往しても意味がないのだ。
「・・・・・・舞台に上がる?」
「いや。今回はホテル・モスクワとカルテルが主演だ。俺は観客さ。安全な高みで、鑑賞させてもらう」
「・・・・・・・・・なら、いい」
仏頂面のまま呟いたの首元に、張が顔を寄せた。
「・・・・・・今日はしないな、死神の匂い」
そう言って、の顔を伺おうとした張の視界が回る。に押し倒された、と張が気付いたのは安ベットの上に仰向けで倒れこんでからだった。
張の顔の横に手を着いて、上から張を見下ろすの瞳が冷たく光っている。
「・・・感じないのは、維新(ウァイサン)がいるからだ・・・・・・維新がいれば、他はいらない。救いも、光も、何も必要ない」
淡々と言うは黒狼の顔をしていて 張はの腕を強く引き寄せた。バランスが崩れた<を、今度は張がベットへ組み伏せる。そのまま、上からの唇に口付ける。
「・・・私は・・・・・・維新が望むなら、神様だろうが、バラライカだろうが、殺してやる」
張を見上げ、真面目な顔でそう言うは、まだ黒狼の顔をしていて 張はその瞳を見つめたまま告げた。
「・・・・・・今は、まだ必要ない」
告げながら、この腕の中でいっそ壊れてしまえとばかりにを抱きしめた。
そう今は さえこの腕の中にいれば、それでいい そう思った。
46音で恋のお題より「出口はいらない」
あなたがいる限り、死という出口は必要ない・・・・・・
ブラウザバックでお願いします。