夜明けまではまだ幾許かの猶予を残した刻限、微かな気配に張は目を開けた。

  すでに馴染み深くなったその気配に、ふっと小さく吐息で笑う。
  音もたてずに近づいてきた気配が、僅かにベッドを弛ませた。
  体の上に重さを感じる間もなく、噛み付くように唇を塞がれた。

  嗅ぎ慣れた死神の匂い       その中に一瞬香った微かな違和感に、張(チャン)は瞼を上げた。
  手を伸ばして引寄せればより一層強まる死神の残り香が、今夜も黒狼が誰かを狩ってきたことを語っている。

  息を継ぐために離れた彼女の唇から、小さく安堵するような吐息が漏れた。

  「・・・

  その名を呼べば、答えるように再び唇が降ってきた。




  は"黒狼"の二つ名を持つ、ロアナプラでも屈指の殺し屋だ。
  仕事を終えれば、こうやって張の元へとやってくる       濃厚な死神の気配を纏ったままに。

  いつからかその気配にも馴染んだ自分がいる。
  それだけの夜を張はと超え、それだけの者を黒狼は狩ってきた。

  今更それしきのことに罪悪感を抱いたりはしない。ただ事実としてそれはそこに存在する。

  黒狼が殺した者の数なんて世界の人口から見ればほんの僅かで、しかも殺されても仕方がないような者ばかりだ。
  世界の塵溜めのようなロアナプラに在るのは、やはり塵のような者ばかりなのだから。
  当然。自分も、すらも。

  世界を廻そうなんて大それたことは思っちゃいない。
  正義の味方になる気も無けりゃ、悪徳の街の支配者として君臨する気も無い。誰か他の奴のモノになるのが気に食わないから、四大勢力の一つとしてロアナプラを仕切っているだけだ。
  ゲームに興じているのは負けるのが面白くないからで、決して勝ちたいからじゃない。やるからには勝ちたいが、本音はただ、持てる手札を有効に使って最高の今ってやつを楽しめればいいと思っている。
  今もそう思っている。
  永遠なんてクソ喰らえで、愛なんてのは偽善者の戯言だ      .




  「?」
  触れた指先が濡れた感触に、張は引っかかった。
  もう一度の頬に触れ、その感触を確かめる。
  涙かと勘繰り、その正体を知って、張は訝しげに眉を寄せた。
  馴染みのありすぎるそれは、だった。


  は"殺し屋"だ。
  返り血くらい浴びることもあるだろう。
  だが、張の元を訪れる時のは決まって、死神と微かな血の気配だけを纏わり付かせていた。
  浴びた返り血は洗い流してから来るのだろうと思っていた。事実、抱き寄せた髪が湿り気を含んでいたこともある。

  が纏うのはいつだって気配だけ       なのに、今はその頬に紅い滴を付けている。

  再び香った違和感の正体に、張は今度こそ顔を顰めた。

  返り血だと思ったそれは、だった。



  黒狼は殺し屋だ。
  その手際は鮮やかだ。
  放たれる散弾をその刃で舐めるように逸らし、打ち込まれる銃弾をその刃で切り落とし、繰り出される一閃をその体捌きでかわし、そして対象に死神の一撃を揮う。
  それだけの技量と、覚悟と、そして運を黒狼は持っている。

  その黒狼が傷を負っている       今までだって、狩りの最中に傷を負うことぐらいあったはずだ。
  現に、の体にはそんな傷痕が小さいものなら数えるのも面倒な程に残っていることを張は知っている

  けれど、張が知る限り、が狩りで傷ついたことはない。
  そう。張の記憶には無いのだ      .


  顔を顰めたまま、張はの頬をなぞった。

  掠り傷程度のものなのだろう。ほとんど止まっている出血に、張は少しだけ寄せていた眉を緩めた。
  傷というのも大袈裟な、小さな紅い線       けれどそれは、確かにそこにあって、張の心をざわつかせる。

  この闇の中では、きっとお互いの表情なんて読めやしない。
  それで良かったと思う。自分のこんな表情は、誰の記憶にも留めてなど欲しくない。


        誰を狩ってきたんだ?      .

  喉元で引っかかっている問いを、ぐっと胸の奥へと押さえつける。

  最初に自分で決めたルールだ。
  黒狼の狩りを訊ねない、と。
  訊いてしまえば気になってしまう。気になってしまえば、自分はきっと口を挟んでしまう。そして、次にはきっと手を出してしまうから。
  そうなってしまえば、黒狼は自分の手を離れていくと、確信しているから。


        むろん、傷をつけた相手を殺してきたんだろ?      .

  たとえ独占したいという欲望故の問いかけも、を大切にしたいと思う心故の問いかけも、口にしてしまえばそれはきっと全ての喪失へと繋がってしまうから。
  今はまだ、そんな喪失は望んでいないから。

  だったら、何を言えばいい? 彼女を、をずっと傍に置いておくために      .




  「・・・・・・・・・・・・チッ」



  浮かんだ言葉に、思わず舌打ちが漏れた。

  愛なんてのは頭のイカレタ偽善者のメシのタネにもならない妄言だし、永遠なんてものは端から信じてすらいない虚構だ。

  今だってそう思っているし、それは一生変わらない。
  宗教と同じで、信じたい奴らだけが信じ、崇めたい奴らだけが崇めればいい。自分やには縁のない、遠い世界の御伽噺だ。

  それでいい。そうでなければならないのだ。






  「・・・・・・維新(ウァイサン)だけでいい。他はいらない、何も、全て」






  闇の中、じっと張を見つめていたが、すっと顔を寄せた。

  絡まった視線の先に、何を読み取ったのか、の瞳がすぅっと細くなる。
  小さく漏れた吐息が、彼女が笑ったことを教えてくれた。






   「維新がいればいい」



  囁かれると同時に、唇が触れた。

  その唇を奪うように口付ける。
  強くを抱きしめて、その唇を貪りながら、張も鬱蒼と笑った。


  そうだ。考えることも、言葉にすることも、すべて無意味だ。











   Meaning of the Nonsens











     serenade / 喪失 より 「無意味の意味」
 意味なんていらない・・・

Photo by 塵抹

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