見上げた月は濡れたように白かった。

  ここロアナプラで見る月は紅いことが多い気がする。
  人が殺された晩に昇る月は血を吸って赤くなるんだという話を聞いたことがあるが、だからロアナプラの月は紅いんだと言われれば、それはそれで説得力がある気がする。
  月を見上げるのが、仕事後なことが多いから殊更そう思う。
  それに対して、今日は仕事後ではないし、ましてやいつも見上げる時間に比べれば随分と早い。歓楽街のネオンが宵闇にやっと馴染んだ頃合いだ。

  狭い路地裏を抜けていく風が、僅かに冷涼さを含んでいる。年中常夏のこの地でも、暑さのピークは過ぎたらしい。
  ということは、今日の白い月は、上空の空気が澄んでいるのが原因か。
  地上はまだまだ暑くても、時節は確実に動いているということらしい。

  塒へと続く通路がぶつかる通りから、見慣れた黒い車が出てくるのが見えた。
  距離もあったし、恐らく自分のことは気付かれなかっただろう。

  二つの意味で小さく溜息を吐く。
  一つは、優秀だが顔を合わせると少々面倒くさい人物と鉢合わせなくて済んだことに対する安堵の溜息。
  もう一つは、せっかく買った珈琲を独り占め出来なくなったことに対する落胆の溜息。
  落胆      そう問い直して心の内で苦笑する       それだけじゃないだろう?

  塒にしている安アパートへと続く狭い通路へ曲がる前に、香った匂いにその感情が頷いた。


  「よぉ、久しぶりだな、

  まだ火を点けたばかりらしい長い高級煙草(ジタン)を惜しげもなく投げ捨てて彼は瓢と笑った。











   Burning Hot Summer! -3 (Don't let me Change Anymore)











  「・・・・・・不用心だ」
  久しぶりだというのに、相変わらずニコリともせずにが呟いた。

  「一人でこんなとこにいるなんて」
  「違うな」
  瓢と肩を竦めれば、が訝しげに僅かに眉を寄せる。そんなの僅かな表情の変化さえ楽しくて口元が綻ぶのを自覚する。

  「お前と二人だ」

  張(チャン)の言葉に、は一層眉を顰めた。
  嫌そうな表情をしているが、本当に嫌ならは顔に出したりしない。一切の表情が消えることを知っているから、張は笑って肩を竦めた。

  「誰もが恐れる黒狼と一緒で、何が不用心なんだ?
   この状況で俺に何かあるなんてのは、暴力教会でミサがあるってのと同じくらい、有り得ないことだろ?」

  「・・・・・・教会である限り、ミサがあってもおかしくない。ここがロアナプラである限り、維新(ウァイサン)に何かあってもおかしくない。そうでしょ?」

  仏頂面で反論したに、張は苦笑を浮かべた。
  いつの間に、こんな切り返しを覚えたのか       相変わらずといると退屈が遠ざかる。

  「だが、お前がロアナプラにいる限り、そんなことは有得ない。そうだろ?」
  「・・・・・・・・・そうだけど」
  面白くなさそうに呟くに、張は飄逸に笑った。
  「・・・何か、ムカツク」
  膨れっ面なも久しぶりに見るからか、何故か楽しさばかりを感じてしまう。

  も三合会(トライアド)に出入りする際は他の構成員と同じ黒いスーツ姿だが、今日はハーフパンツにTシャツというラフな格好だ。
  だからだろうか、覗く表情にも隙を感じてしまう。
  暗殺者であるに本当の意味で隙などないのだろうが       久しぶりに会う彼女は、相変わらず魅力的だと思った。


  「会いたかったぜ、

  突然の張の言葉に、が目を丸くする。
  その露骨な驚き方に苦笑して、張は肩を竦めた。

  「そんなセリフを俺に言わせるほど、お前が俺の許に来てなかったってことだ・・・・・・

  一歩踏み出して呼べば、は素直に張に近づく。
  まだこの孤高の獣に触れることを赦されている       その事実が張に幸福感を感じさせる。

  「まさかとは思うが、俺の代わりを見つけたのか?」

  肩に手をまわして引き寄せれば、が自然に張の腕の中に収まる。
  見上げてくる瞳が怪訝そうに瞬いた。

  「・・・それ、本気で言ってる?」
  「お前はどう思う?」

  問い返せば、瞳が危険な光を帯びる。

  「本気なら、今からバラライカを殺りに行く」
  「おいおい、どうしてそうなるんだ?」

  告げられたの言葉に、今度は張がサングラスの奥の目を丸くする。
  だが、当のは張の驚愕など気にもせず、危険な気配をさらに強めた。

  「バラライカを殺って維新に会いに行けば、維新の代わりなんていないって信じるしかないでしょ?」

  告げられた理由に、張は暫し固まった。
  それから、思わず破顔した。


  「ったく。、お前は本当に俺を退屈させないな!」

  声を上げて笑う張をが不思議そうに見つめている。

  きっと彼女は今自分が何を言ったか分かっていないのだろう。
  分からなくて構わない。
  まさか永遠の愛の誓いにも等しい言葉を口にしたなんて理解した日には、きっと孤高の獣は牙を失うだろうから。


  「・・・・・・笑いすぎ」
  口をへの字に曲げたをもっと強く引き寄せて、張はまだ笑いの残る目で彼女を覗き込んだ。

  「で、結局、ここ最近顔を見せなかった理由は何だ?
   いや、仕事を断ってた理由と訊いた方がいいかな・・・まさか、転職を考えてるつもりじゃないだろうな?」
  「三合会へ?」
  「歓迎するぞ」
  「冗談。絶対にイヤ」

  軽く張を睨んで、顔を逸らせるのその態度に傷ついた素振りで張は溜息を吐いてみせた。

  「そうか、それは残念だ。で、本当のところは、どうなんだ?」
  「・・・・・・・・・」

  張が諦めないと知り、が不機嫌に溜息を吐いた。


  「・・・・・・・・・・・・風邪ひいた」
  「俺のベッドルームが寒くてか?」

  堪えきれずに笑いを含んだ張の声に、が再び張を睨みつけた。だが、先ほどとは迫力に狼と子猫程の差があって、再び張を笑わせた。

  「・・・・・・・・・維新の意地悪

  そんな顔で毒吐かれても痛くも何ともなく、むしろ手放したくなくなってしまうのだが。
  だが、このまま機嫌を損ねられては、ここまでやって来た張の目論見が無駄になる。それは困るとばかりに、張は必死で笑いを収めてまだ腕の中にいるを強く引き寄せた。

  「いいさ。お前が来ないというなら、俺がこうやって来るだけのことだ」

  まだ仏頂面のの首元に顔を寄せれば、彼女が常に纏っている死神の匂いとは別の香りがした。

  「血の匂いのしないってのも、なかなか珍しいんじゃないか?」

  久しぶりに触れる彼女の匂いを吸い込んで、喉の奥で小さく笑う。

  「こういうのも、偶にはいいだろ?
  「・・・明日の朝の珈琲を淹れてくれるなら」

  腕の中から聞こえた答えに、飄逸に笑って、張は月を見上げた。夜はまだ、始まったばかり      .











     serenade / 裏切る前に より 「これ以上、揺るがせないで」
 あたなといると"黒狼"を見失うから・・・・・・

Photo by 塵抹

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