「ここ最近、黒狼の噂を聞かないが、あいつは転職でもしたのか?」
立ち去ろうとしたら、高級煙草(ジタン)を燻らせながら尋ねられた。気のない素振りを装ってはいるが、そうではないのだろう。
つい吐きそうになった溜息を飲み込んで、彪(ビウ)は半分向けていた背を改めて、再び上司に向き直った。
「そんな話は聞いてませんが・・・・・・確かに、黒狼の活躍を聞きやしませんね」
「だろう? まぁ、元々それほど勤勉じゃなかったがな」
「・・・黒狼に、日本のサラリーマン並みに仕事をされたら、今頃ロアナプラには死体しか残ってないでしょうぜ」
「だが、成果は表彰もんだ」
「・・・ノルマ達成率100%、それこそが黒狼のセールスポイントじゃないですか?」
彪の言葉に、張維新(チャン・ウァイサン)が飄逸に肩を竦めた。
黒狼 この世界でその名を知らない者はいない。その名を聞いて戦慄しない者はいない。
その名は、死神の名だ。
最初にそう評したのは誰なのかは分からない。本人が名乗ったわけではないだろう。
影のような黒い獣 始めはそんな噂だったのが、いつの間にか黒狼と呼ばれるようになった。
その獣に狙われたら逃れられない、絶対に喉を噛切られる そんな不吉な話とともに黒狼の噂は語られた。
正直、彪は噂は噂だと思っていた。
マシンガンの銃撃を全て切り落として標的を殺したってのは、何発も弾を喰らっても倒れないような屈強な男ならあり得るだろうし。街を仕切っていた連中を一晩で皆殺しにしたってのは、複数の人間が動けば可能なことだろうし。
そういうちょっとした酒のついでの話がいつの間にか大きくなり、そのヒールに皆が付けた呼び名が黒狼なのだろうと、そう思っていた。黒狼は存在するかもしれないが、実在はしていないと思っていた。
だから最初、張(チャン)が瓢と笑いながら 「あいつが黒狼だ」 と言った時には、いつもの悪い冗談だとしか思えなかった。
黒狼が女、しかも酒場で酒も頼めないような外見だなんて、誰が想像しただろうか。彪だって、自分の目で黒狼の仕事っぷりを見なければ、とてもじゃないが信じなかった。
張が連れて来た、という名の少女が、多くの者を恐れさせている黒狼 殺し屋だと。
「まさか仕事が無いってことは・・・」
彪の呟きを張が鼻で笑う。
「ここがロアナプラじゃなかったとしても、黒狼に限ってそれはないな」
「・・・仰る通りで」
黒狼ほどの手腕を持つ殺し屋に依頼がないなんてことは有りえない。
どんな平和に見える高級住宅街(ヒルズ)にだって不和の種はある。ましてここはソドムとゴモラも真っ青な悪徳の街、ロアナプラだ。殺人が起きない日というものがあるかどうかさえ疑わしい。そんな街で、凄腕の殺し屋が失業するなんてことは有りえない。魚が海で溺れるようなものだ。
ふと、思案気な張の顔に、彪の悪戯心が目を覚ます。わざとらしく咳払いをして口を開いた。
「そう言えば、先日ラグーン商会のとこの日本人が黒狼とすれ違ったらしいですぜ」
「・・・・・・らしいな」
「ということは、黒狼はロアナプラにはいるんでしょうが・・・」
「・・・そうだな」
頷きながら、張が新しい煙草に火を点ける。
「ですが、ここまで大哥(アニキ)の許に顔を出さないってことは、やっぱり殺しはやってないんでしょうね」
張が苦笑しながら高級煙草の煙を吐き出した。彪は素知らぬフリで言葉を続けた。
「何なら、黒狼に殺しを依頼しておきますが?」
「・・・俺の、か?」
「あぁ、なるほど。それなら大哥は仕事をしに来た黒狼と、仕事後の黒狼と二度会えることになりますしね」
ニヤリと笑って言えば、降参したというふうに張が肩を竦めた。
三合会(トライアド)と黒狼が繋がっていることは、このロアナプラの裏の世界に片足を突っ込んでいる人間なら既に知っているだろう。黒狼が三合会の仕事を優先的に請け負っている、というわけでもないのだが、いつの間にか他人に知られているのが情報というものだ。
だが、その黒狼と三合会は金義潘(カンイファン)の白紙扇(パクツーシン)、張維新その人とが深い仲だと知っている者はほんの一握りだ。
さらに、黒狼が仕事が上がりにほぼ必ず張の寝床に潜り込んでいるなんてことは、三合会でも限られた数人しか知らないことだ。もちろん、張の右腕である彪は当然のように知っている。知っているどころか、それで被害を被ったことが何度もある。
警備の者に気付かれること無くいつの間にか上り込み、が張のベッドで熟睡する度に、彪は対抗策としてセキュリティーを強化している。単に不審者がそう易々と侵入しているのが面白くないだけで、他意はない。だが、ここ二週間ほどがぱったりと忍び込まなくなった。セキュリティー対策が功をなしているわけではなさそうなのが、彪にとっては少々悔しいのだが。
まだ思案気な張に、彪は苦笑を浮かべた。
「そんなに黒狼のことが気になるんでしたら、呼び出せばどうです? 大哥が呼べば、奴なら喜んで来るでしょうぜ?」
「彪、分かってないな」
張がニヤリと口元を歪めた。
「そんなこと言ってみろ。あいつは一生ここに来なくなる。何だったら、賭けてもいいぜ?」
「・・・止めときます。分が悪すぎますから」
「利口だな、彪」
浮かべる笑みを濃くして張が笑う。
つい吐きそうになった溜息を再び飲み込んで、彪は張に尋ねた。
「・・・ですが、必要なら、シェンホアから連絡をさせますが?」
「ん? そうだな・・・・・・」
彪の提案に、張は暫し思案気に宙を見つめていたが、結局苦笑を浮かべて首を横に振った。
「急な要件があるわけでもなし、そこまでする必要はないだろう。それに、毎回毎回シェンホアをとの連絡役に使うのも悪いだろ」
全く悪いと思っていない顔で、張が肩を竦めた。
「それに、偶にはこんなふうに焦らされるのも悪くないだろ」
そう言って高級煙草を銜えた張に、彪はやれやれと頭を振った。
今度こそ立ち去ろうと踵を返した背中を、再び呼び止められた。
「彪。さっきの言葉、には言うなよ?」
振り返った彪に、煙草の煙を吐き出しながら張が苦笑する。
「"喜んで来る"っていうアレだ・・・聞かれてみろ。お前の喉を掻っ切られるぞ」
笑う口元とは対照的に、サングラスの奥の目は真摯だった。
「彪。俺は、お前のことは高く買ってるんだからな」
「・・・分かってますよ、大哥」
「なら、いいさ」
そう言って、張は飄逸に肩を竦めたのだった。
Burning Hot Summer! -2 (Looked Forward to the words)
「あら? 彪(ビウ)の旦那ね」
「シェンホアか・・・張大哥(チャン・タイコウ)に用事か?」
「ノー、ノー、張大哥の手、煩わすないね。もう済んだですよ」
熱河電影公司(イツホウディンインゴンシ)のロビーで、先程の会話に出てきたシェンホアと行き会った。
シェンホアも黒狼と同じフリーランスの殺し屋だ。シェンホアは黒狼とは違って三合会(トライアド)の依頼を優先的に請け負っている。
この妖艶な美女と、黒狼の共通点など殺し屋というところしかなさそうなのだが、その共通点が絶大な親近感を生むのか、シェンホアと黒狼は何故か友好関係を築いているらしい。そのため、未だに携帯電話を持とうとしない黒狼への連絡手段の一つにされることもある。
今のご時勢に携帯電話を持たないなんて考えられない。まるで張大哥(チャン・タイコウ)に首輪をつけられるのを嫌がっているようにも思えて、彪にしてみれば、それも何だか面白くない。
「熱河電影公司は、何時来ても涼しいね。私、ここに住むいいね」
「そうか? 俺はあんまり実感ないが・・・」
「おう、旦那たち、いつも黒スーツですから、分からないね」
呆れたようにシェンホアが溜息を吐き、ロビーの外に広がる熱帯夜をウンザリしたように眺めた。
「毎日毎日暑いは、人間おかしくなるね・・・・・・ここ、とても涼しいは普通、嬉しいね。嬉しくない、だけね」
「?」
訝しげな彪の表情に気付いたシェンホアが苦笑する。
「夏に風邪ひくはバカね」
「風邪で寝込んでるから、最近仕事をしてなかったのか・・・」
納得しかけた彪に、シェンホアが首を振る。
「違う。風邪治ったね。だけど、仕事する、また風邪ひく言うてたよ」
「・・・・・・・・・」
黙り込んだ彪に、シェンホアが妖艶だが、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「エアコン温度設定、もう少し上げるが張大哥も喜ぶね」
「・・・・・・・・・考えとく」
不機嫌に答えた彪に、シェンホアが声を上げて笑ったのだった。
serenade / 裏切る前に より 「その言葉をどれだけ待ち望んだことか」
望んだ言葉は、其れ故に温かく苦かった・・・
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