どうしてかしら・・・あの人のことが、とても・・・・・・
ねぇ、彼は、一体誰なの・・・・・・? 私は・・・・・・・・・
ねぇ、私も、一体誰なのかしら・・・・・・?
教えていただけるかしら? ・・・・・・でも、知らない方が、幸せなのかしら? .
寂しそうに微笑んだその人が、出来ることなら大切な人と幸せになってくれればいいと、そう願わずにはいられなかった。
「あら? 嬉しい・・・すぐにお茶を」
にっこりと柔らかく微笑んだ彼女が、ピアノを弾いていた手を止めて立ち上がった。
「そのまま弾いていてくれて構わない」
「でも・・・・・・やっぱりお茶を淹れます。もう手を止めてしまいましたし」
「そうか・・・」
「はい。お掛けになって、少し待っていて下さい」
そう言って、彼女は棚に向かって、紅茶の準備を始めた。
ディーノは黙ってソファに腰を降ろした。その瞳が安堵と絶望に揺れていることを読み取って、ロマーリオは小さく溜息を吐いた。
(・・・・・・ボス、あんたは・・・・・・)
彼女が目を醒まして、その記憶を失っていると知ってから、ディーノはあれほど一人で通ったこの部屋へ、必ずロマーリオを共に連れて来るようになった。あんなに彼女が目を醒ますことを願っていたのに、なのに .
「ロマーリオさんも、座って下さい。そんなに畏まって立っていたら、ボスさんも私も息苦しいわ」
お茶を持って戻ってきた彼女 が苦笑を浮かべた。
「・・・分かりました」
苦笑で答えて、ロマーリオもソファに腰掛けた。
「今日はダージリンにしてみたの」
そう言って、がティーセットを置く。注がれる紅茶の香りに、ロマーリオが微笑んでみせる。
「いい香りです」
「ありがとう」
「・・・・・・」
隣に座るディーノだけが、無表情で紅茶に口をつけた。
純粋な紅茶だけの香りが、部屋に満ちる。
ロマーリオは傾けたカップの陰で再び小さく溜息を吐いた。
(・・・・・・ボス、もう・・・・・・)
が目を醒ませば、ディーノは幸せになるはずだった。そのためにを撃って、そのためにを仮死状態にして、そのために、社会的に・ファミリーのを葬り去ったはずだった。なのに .
「・・・・・・ピアノを・・・ピアノを弾いてくれないか」
呟いたディーノの瞳が、期待と不安に揺れている。
「何かご希望はあります?」
「・・・いや・・・・・・君の弾きたいものを」
「はい」
答えて、がピアノの前に座る。
一つ深呼吸して、の指が鍵盤を走り出す。
「 」
流れ出した曲に、ディーノがきつく目を瞑った。何かを堪えるかのような表情に、ロマーリオは黙って視線をディーノから外した。
目覚めたは、その記憶のすべてを失っていた。
自分が誰なのかも、どうしてここにいるのかも。目の前にいるのが誰なのかも、どう想っていたのかも。
記憶を失う前と同じように、はこの部屋にいる。
あの頃と違って、今、扉に鍵は掛けられていない。
だが、扉を開けば重たい音が響くのは変わらず、部屋がある廊下には見張りの部下が立っている。
そして、はけしてこの部屋を出ようとはしない。まるで、ここだけが安全であるかのように .
そんなに、ディーノはあえて、以前のとは違うところを探し出そうとしているように、ロマーリオには思えた。
そして、それを見つけては、の記憶が戻っていないことに安堵し、そして、以前のとは違うことに傷付く。
淹れるお茶が、ハーブティではないことに。
弾きかけのピアノを、中断することに。
向けられる微笑が、素直なものであることに。
そして、以前のと同じところを見つけては、記憶が戻るかもしれないことに怯え、そして、希望を抱く。
ポットを傾けるときに、以前と同じように一緒に小さく首を傾げる、その癖に。
好んで弾く曲が、以前と同じどこか悲しげなメロディの、あの曲であることに。
浮かべる笑みは違っても、以前と同じようにディーノに向かって微笑むことに。
「・・・お嫌いな、曲でしたか?」
弾き終えたが、怯えた視線をディーノに向けた。
ゆっくりと、目を開けたディーノが首を振った。
「いや・・・・・・好きな曲だ。どうして、この曲を?」
困ったようにが微笑む。
「ここには楽譜もいっぱいありますし、他の曲も弾きますが・・・・・・すべて忘れても、この曲だけ、指が覚えていました。だから・・・」
の視線が、ディーノと絡む。
「・・・きっと、大事な曲だったんだと思うんです・・・・・・誰かの・・・」
「 」
絡んだ視線を、ディーノが先に外した。
「・・・・・・先に戻る」
「ボス・・・」
「ロマーリオ、お前は後で戻って来い」
「・・・・・・はい」
ディーノがソファから腰をあげた。
歩き出すディーノに、が躊躇いながら声をかける。
「ボス・・・あの・・・・・・」
「何か必要なものがあれば、ロマーリオに言ってくれ」
「・・・・・・はい・・・」
扉の外へ消えるディーノの背中を見送るの肩が、音を立てて閉まったのを機に落ちた。
ロマーリオの方を振り返って、が悲しげに微笑む。
「・・・また、駄目でした・・・・・・」
ディーノが残していったカップを、の指がそっと触れる。
「・・・呼んでは頂けないんですね・・・私の名前・・・・・・」
そっとカップを持ち上げて、が目を伏せる。
「私・・・あの人に、嫌われているんですね・・・・・・」
大事なものであるかのように、まだ温もりの残るカップを両手で抱えて、が呟く。
「だったら、どうして・・・・・・・・・」
「・・・・・・」
黙ってロマーリオは紅茶を飲んだ。
本当の事を言うのは簡単だ。だが、言えない。ロマーリオには言うことができない。
何故なら、ディーノがそれを望んでいないからだ。
自分の名前さえ知らせるのを恐れて、けしての前で、キャッバローネの名を出させない。ディーノとさえも呼ばせない。
は記憶を失った。記憶と同時に、常識的な概念、知識も失った。それとも、初めから欠落していたのか。
一日中この部屋から出ることなく、窓から外を眺め、ピアノを弾く。
は、この状況に不審を抱かない。この外にも、世界はあるのに .
時折訪ねるボス、ロマーリオと呼ばれる限られた人間と短い時間会話をする。
は、ボスという呼び名に疑問を持たない。本当の名前は、別にあるのに .
は記憶を失った。記憶と同時に、ディーノへの思いも失ったのだろうか。それとも、初めからなかったのか。
(そんなはずはねぇ!! そんなはずは・・・!!
だったら、何でボスに殺されることを望んだ?!
何で、わざわざ自分が不幸になる道を選んだ?!
あんな状況で、それでもボスといる時、あんたは笑ってたじゃねぇか?!
ボスが幸せになれるはずだったんだ・・・あんたが目覚めれば・・・・・・なのに .
ボスのこんな顔を見たかったんじゃねぇんだ!!!)
眼鏡の奥に表情を隠して、ロマーリオはもう一度、小さく溜息を吐いた。
指先だけで触れる こころ
アトガキ
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