あぁ、だから・・・だから、あなたは、私の名前を呼んでくれなかったのね .
驚きに顔を上げたディーノに、彼女はうっすらと微笑を浮かべた。
あなたの望むままに・・・・・・それが私の望み・・・願いだから .
紡がれる言葉に、ディーノは思わずその手を振り払った。
「どうして・・・・・・」
呟いて、は改めて部屋の中を見渡した。
だが、改めてそうしてみても、目新しいものは見つけられない。
「・・・・・・」
小さく溜息を吐いて、は視線を扉へと向けた。
『外』と繋がる扉。
鍵が掛けられていないことも知っている。
出て行こうとすれば、簡単に出て行ける はずなのに。
「・・・」
は首を振った。
どうしても、『外』のことを考えるのが苦痛だった。
恐怖感のようなものが湧き、それでも考えようとすれば激しい頭痛に襲われる。
それでも知りたくて、扉に手をかけたこともある。
だが、その瞬間に立っていられないほどの眩暈に膝をついた。
あれ以来、部屋の外へ出ることも、部屋の外のことを考えるのも止めた。
ここにいれば安全 そう、頭の中で誰かの声がする。
「・・・・・・ココに、いたのでしょ?」
頭の中の誰かに尋ねてみても、それ以上の答えを返してはくれない。
ずっと、そんなことを繰り返している。
は、もう一度小さく溜息を吐いた。
この部屋にはピアノがあった。
そして、自分の指はピアノが弾けた。
この部屋にはティセットが揃っていた。
そして、自分は珈琲ではなく紅茶の方が口にあった。
この部屋には女性の衣服があった。
そして、自分の体はその服にピッタリだった。
「・・・私は、ココにいたのでしょ?」
は、部屋を見渡した。
だが、何も思い出せない。
暖かな日差しが降注ぐ窓辺で、小鳥たちの囀りを聴いても、何も思い出せない。
以前、自分がココにいたのなら、何か残っていないのかと、何度も探した。
以前の自分の面影を探して、部屋中を探した。
以前の自分が書いた日記とか、もしくは受け取った手紙とか だが、走り書かれたメモさえない。
以前の自分が好んだものとか、性格が垣間見えそうなものとか だが、残っているのはシンプルな画一のものばかり。
以前の自分が写った写真とか、やりかけの趣味とか だが、自分の名前を示すものさえない。
「・・・・・・・・・」
彼が最初にそう呼んだから、それが自分の名前なのだと思う。
あれ以来、一度も呼んではくれないが .
この部屋には、過去の自分の面影は、何もない。
何も残っていない。
何故? とは思う。
でも、それは重要じゃない。
ただ、自分が知りたいのは一つだけだ。
彼が誰なのか .
ボスと呼ばれる彼が、何なのか .
彼のことを考える それだけが、生きている理由のような気さえしてくる。
好き・・・なのだと思う。
大好き・・・なのだと思う。
愛している・・・のかも知れない。
(・・・・・・・・・だけど、彼は?
私は、彼を好きになっていいの?)
そう、頭の中の誰かに尋ねるたびに、言い難い感情の波に攫われそうになる。
苦しくて、苦しくて、変になってしまいそう・・・・・・いいや、もう変なのかもしれない。狂ってしまっているのかもしれない。
だって、記憶がないのだから。
自分のことさえ、何も思い出せないのだから。
もう、自分は狂っているのかもしれない。
不安で、不安で、もう叫びだしてしまいたくなる。
だって、分からないから。
彼が誰なのか、何なのか、分からないから。
彼に嫌われてるかもしれない・・・・・・そう考えるだけで、泣き叫びたくなる。
(・・・・・・きっと、嫌われてる・・・・・・
だって、彼は、私の名前を呼んでくれない・・・)
の目から、ポロリと涙が零れ落ちた。
一度流れ出した不安は、止まることを忘れたかのように、後から後から溢れ続けた。
「・・・・・・!!」
扉が開く音に、は振り返った。
部屋の中へ足を踏み入れかけた彼の目が見開かれた。
立ち尽くす彼に、慌てては涙を拭おうとしたが、一度溢れ出した不安はなかなか治まってくれそうにない。
(・・・ダメ・・・・・・こんなんじゃ、もっと嫌われてしまう・・・・・・)
涙を隠すように、は彼に背中を向けた。
「・・・どうして、泣いて・・・・・・?」
「ごめんなさい・・・・・・」
かけられた言葉に、は急いで首を振った。
今はただ、これ以上彼に嫌われたくなかった。
「・・・どうして、謝る・・・・・・?」
「ごめんなさい・・・」
先程よりも近くで聴こえた言葉に、は思わず顔を上げた。
腕を伸ばしても触れられない、そんなギリギリの距離に、彼がいた。
止められない涙に、慌てて顔を伏せて、は首を振った。
「もし・・・もしも、私が邪魔なら・・・顔も見たくないなら、すぐに、いなくなるから・・・」
「・・・どこへ・・・・・・?」
「行くところなんて・・・・・・」
どこにもないことに思い至って、は悲しく微笑んだ。
「・・・・・・行くところなんて、この世界のどこにもないから・・・だったら 」
「駄目だっ!!!」
は息を呑んだ。
力強い腕が、を抱きしめていた。
彼の、腕の中にいる その事実に、の目に新たな涙が溢れ出す。
「駄目だ、!!! ・・・俺の前からいなくなるなんて・・・そんなこと言うな!! 俺は・・・・・・」
掠れた声で呼ばれたことに、それだけでいいと思った。
愛してるとか、そんなことどうだっていい。
嫌われてるとか、それくらいどうってことない。
自分は、彼のためだけに存在していたんだ .
「・・・・・・もう、君を殺したくないんだ・・・・・・」
悲痛な声で囁かれた呟きを、聴いてしまった。
の心の中で、何かがストンと収まった。
は、ゆっくりと微笑んだ。
(あぁ・・・そうか・・・・・・そうだったの・・・・・・あぁ、だから・・・・・・・・・・・)
は、優しく彼の体を押し返した。
「・・・?」
不安そうな彼の声に、その胸から顔を上げて、は微笑を浮かべた。
自分がどうするべきなのか、妙に納得できていた。
最初と最後の合間
アトガキ
Photo by 空色地図
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