「神さんにやっちまうんなら、あたいにおくれよ」

  思わず賽銭箱に放りかけた手を止めていた。

  「大層な願いごとでもあるのかい? そんな面には見えないけどねぇ・・・」

  女はふらりと近づいてきて、顔を覗きこんで徐に笑った。

  「ねぇ、兄さん、いいだろう? そこに放っても神さんには届かないよ。なら、楽しく使っちまった方が好くないかえ?」

  どうして否と云えなかったのか       松吉はずっと答えを出せずにいる。











返事は「はい」だけ!











  「あら、驚いた。兄さん、本当に来なすったよ」

  目をまん丸にして、心の底から驚いているふうの女に、松吉は表向き用の愛想好い表情をするのをすっかり忘れてしまった。
  「そんな顔しないで。驚いただけさね。本当に来てもらえるとは思ってなかったからさぁ」
  「・・・なら帰る」
  「そんなこと云わずに! わざわざ来てくれたんだ。ゆっくりしていきなよ」

  酒を注ぎながら、女は艶やかに笑った。
  太陽の元で会ったときとは化粧が違う。髪形が違う。浮かべた笑みの種類も違う。
  松吉はお猪口に口をつけた。

  「・・・こっちも驚いた。本当に、遊女とは・・・」
  「あぁ! そうだった!! 肝心なこと忘れてたよ!!」
  「?」
  着物の襟元を直して、女は膝を正し、松吉に向かって、三つ指をついて頭を下げた。

  「屋の遊女、と申します。よろしゅうお頼み申します・・・」

  神妙に下げた頭を上げて、女       は松吉の顔を覗きこんで笑った。
  その笑顔が昼間のものと同じで、松吉は呆れたと頭を振った。
  「遊女が真昼間にふらふら出歩いて・・・あんた、頭おかしいのか?」
  「あらま。酷い云われようだこと」
  は楽しそうに笑うが、松吉は再び呆れた溜息を吐いた。

  「自由に外に出られんなら、なんで逃げねぇ?」

  遊女は商品だ。
  置屋に売られ、借金を返しきるまで自由はない。許可なく出歩くなどもっての他だ。店側が許すはずがない。商品に"逃げてくれ"といっているのと同じことだからだ。
  なのに、今、松吉の目の前にいるは、一人でふらりと出歩いていた上に、逃げることもなく再び置屋に戻っている。
  理解の範疇を、常識の範疇を超えていた。よっぽどこの仕事が好きなのか      .

  「なんで逃げねぇ? この仕事がそんなに好きか?」
  「・・・ココにいりゃぁ餓えて死ぬことはないさね。着るものがなくて凍死することもない。とりあえず生きられる。だから、さ」

  も、お猪口に口をつけた。それから、からからと笑った。
  「見れば分かるだろ? あたいは別嬪でもないし、器量良しでもない。愛嬌だって、それほど無いさね。
   繕い物だって満足に出来ない不器用ものさ。ココ以外を知らないからねぇ・・・
   ・・・明日の御銭を稼ぐすべさえ知らないあたいがココを逃げだしたって、行き着くところはココしかないのさ。
   飼い猫は野良にはなれない。野良になれなければ、飼われるか、道端で冷たくなるか、二つに一つさねぇ・・・・・・」
  「・・・・・・」

  遠くを見るような目をしていたが、急に松吉の顔に視線を戻した。
  「ところで、兄さんは何を生業としてるお人だい?」
  「・・・飾り職人だ。簪や煙管を作っている」
  「まぁ!! そいつは凄いねぇ!!!」
  素直に感心して、しかしそれからはにんまりと笑顔を浮かべた。
  「ってことは、あの金は、裏家業のなんだね?」
  「・・・・・・」
  「安心おし! あたいはそう軽々しくばらしゃぁしないよ!」
  楽しそうに笑うから顔を背けて、松吉は再びお猪口を傾けた。

  昼間、に見られた金は「五葉」で稼いだ身代金の一部だ。
  いつものように金持ちから奪った金で旨い酒を飲んだ、その残りを賽銭箱に放ろうとしていたところを、ちょうど見られた。確かに、御賽銭としては少し多かったかもしれない。
  同じ賽銭箱にばかり入っていれば怪しまれることもあるだろうと、放る賽銭箱は毎回変えていた。
  たまたま今回の賽銭箱の傍にがいただけ。決して「五葉」のことを知られて探られていたというわけではない。
  だから、知らん振りをして逃げてしまうのが一番よかったはずなのだ。それっきりで終るはずだったのだ。

  なのに、気付いたらの言葉を聞いていた。
  賽銭箱に放る代わりに、一晩を買った。

  「悪い御金は、ぱぁ〜と使ったほうがいい」
  「・・・そうしてる」
  「だったら、今回はどうしたんだい? 使い切れなかったのかい?」
  「・・・・・・」
  「だったら、決まりだ!」
  松吉の沈黙を正確に読み取って、は笑みを浮かべた。
  「賽銭箱に放るより、あたいと楽しく飲もうじゃないかい?」

  どうして否と云わなかったのか       松吉は今も不思議に思っている。





















  「あら、兄さん! いらっしゃい・・・また悪いことしたのかい?」

  最後は声を潜めて囁いたに、松吉は嫌そうに顔を顰めた。
  そんな松吉を気にすることなく、は酒を注ぐ。

  御猪口を受け取りながら、松吉はふとの髪に目をとめた。

  「・・・その簪、前も挿してねかったか・・・」
  「これかい?」

  髪から抜いて、が簪を松吉へと差し出した。
  「お気に入りなんだよ」

  「・・・・・・・・・」
  「さすが本職。そうさ、飾り珠も全部ニセモノの安もんさね」
  松吉の手から簪を抜き取って、はそれを行灯の明かりに翳した。あちこち装飾が剥げかけている。

  「門前市で売られてたのを買ったのさ。子供が飴を買うような値でね・・・
   ・・・だけど、あたいの金で買ったんだ。だから、これは、あたいのものなんだよ。
   他の簪や、ましてや御金に替えられないものなのさ」
  は簪を髪に戻した。
  「そもそも、あたい自身が安ものさ。ニセモノ程度で調度釣合いが取れるってもんだよ。細工のちゃちなこの程度で」

  「・・・・・・」
  「なんだい? もしかして、兄さんが作ったものだ、なんて云わないでおくれよ?」
  「・・・俺じゃねぇ」
  「そいつを聞いて安心したよ! 縁めいたことがあったら困っちまうし、兄さんの細工を馬鹿にしたんじゃないかと心配しちまったよ!!」
  からからと笑ってが、松吉の顔を覗きこんだ。

  「まさか兄さん、あたいに簪でも贈ろうなんて思ってないだろうね?」
  憮然とした松吉に、が呆れたように溜息を吐いた。
  「やだよ。そんなこと、いいんだよ。兄さんは本物さ。本物の職人が作った本物の簪なんざ、あたいには似合わないよ」
  「・・・・・・」
  「本当、いいんだよ!! もう、分からず屋だねぇ・・・
   ・・・そんときは買わせてもらうよ。と云っても、そんな御金、あたいは持ってないからねぇ。ずっと先の話さ。
   そんときには、この簪もぼろぼろになっちまってるだろうから、調度いいさね。
   この簪以上に、あたいの気に入るものにしておくれよ?
    ずっと先のことだけど、そんときは兄さんの簪をあたいに買わせておくれ」
  溜息を吐いて松吉は酒を呷った。そんな松吉を見やって、は徐に笑みを浮かべた。

  どうして否と押し通さなかったのか       松吉は今も後悔している。





















  「・・・なんだって・・・・・・?」

  「だからさぁ、何度も云わせないでおくれよぉ」
  後れ毛をかき上げながら、女は気だるそうにもう一度繰り返した。
  「はもういないよ。死んじまったからねぇ」

  「死んだ・・・・・・?」
  「そうさぁ。だから、今晩はあたしを買っておくれよぉ」
  悩ましげに枝垂れかかる女から、白粉の匂いが強く香った。その体を押しのけて座敷を覗きこむ。

  ざっと見回した中に、の姿は見当たらなかった。
  だが、死んだなんて嘘に違いない。今日はすでに他の客がついたか、きっとまたふらりと外に出かけたのか。いや、もしかしたら足抜けして逃げ出したのかも      .

  「なんだい! の客はケチばかりかい!! あの女とそっくりだね!!!」
  袖にされた女が口を曲げて背を向けた。その髪に、松吉の目が吸い寄せられた。

  「      !? その簪・・・」
  「あぁ? そうさ、のもんさ。形見分けで貰ったのさ!!」
  「・・・・・・・・・      
  「ヘソクリの一つでもあるかと思ったのに、あの女、数枚の着物と壊れかけた髪飾りだけでさぁ!
   店の皆で分けたら、こんなものしかまわって来なかったよ!!」

  「・・・身内はいねかったのか?」
  「そんなもん、この店にいる娘は誰も持ってやしないよ!」
  呆れたように吐き捨てて、女は松吉をちらりと見て溜息をついた。

  「・・・流行病にやられたのさぁ。苦しまずに逝ったよ・・・」
  「そうか・・・・・・」
  「今頃、どっかの寺の裏にでも埋まってるよ・・・・・・これで納得したかえぇ?」
  「・・・・・・」

  黙った松吉に、再度溜息を吐いて、女は無造作に簪を髪から抜いた。
  「こんな縁起の悪い、ぼろぼろの簪、捨てちまった方がいいかねぇ・・・・・・」
  「・・・売ってくれ」
  「は?」

  思わず聞き返した女に構わず、松吉は懐を探った。
  「足りねぇか?」
  「ちょ、ちょっと?!!」

  慌てる女の手に、金を押し付けた。
  と飲むために持ってきた金だった。
  「五葉」の務めで手にした金だった。
  と会わなければ、どこかの賽銭箱に入っていたはずの金だった。

  「貰ってく」

  「?!! こんな大金、いいのかい!!? 返せって云ったって、もう返さないよ!!!」
  叫ぶ女に構わず、松吉は踵を返した。

  人波を抜けて歩きながら、松吉は手の中の簪に目を落とした。
  それは間違いなく、の髪にいつもあった簪だった。
  「・・・・・・金に替えられないと云ってたが、買っちまった・・・・・・だが      
  口を閉ざして、松吉は簪を懐へと仕舞いこんだ。

  ずっと自分は否とは云わなかったのだから       松吉はぐっと食いしばった心中での笑い顔を思い出していた。





















  「松吉殿の・・・作ではござらんな?」

  「・・・・・・ああ」
  仕事机の上に置いてあった簪を見て、浪人が首を傾げた。
  「珍しいでござるな。松吉殿が他の職人の作を手元に置くなど・・・」
  松吉は簪を差し込む陽光に翳した。剥げた装飾や、罅の入った飾り球が小さく光った。
  「それに・・・失礼かも知れぬが、あまり良い細工の品とは・・・・・・」
  腕を組んで首を傾げる浪人に、松吉はふっと相好を崩した。

  「・・・だが、これ以上に気に入るもんを作らねぇとならね・・・」
  「?」

  「これ以上に似合って、これ以上に相応しいもんとなると・・・これがなかなか難しい・・・」
  「ふむ・・・」

  「暇をみて作っちゃみてるが、満足するもんが出来ね」
  まるで自分自身のことのように、浪人が難しい顔をして唸った。
  その様子に呆れた笑いを覗かせて、松吉は簪に目を落とした。

  「もしかすっと、ずっと納得出来ねかもな・・・・・・」
  呟いて、松吉は簪を布で丁寧に包み引き出しへと仕舞った。

  顔を上げれば、未だ首を捻り続けている浪人に、もう一度呆れた溜息を吐きかけた。

  「・・・松吉殿とその簪の持ち主は親しい間柄なので?」
  「そんなんじゃねかった。ただ一瞬、すれ違っただけさ」

  浪人は納得出来ないという顔で首を傾けた。
  「一瞬すれ違っただけの相手に、それだけの情を持てるというのは。某は職人ではないから分からぬが。
   簪を挿す相手のことをそこまで考えるというのは、やはり特殊なことではござらんか。
   相手の好みや注文で作るのが一般的と思うておったが・・・・・・
   松吉殿にまかせたそのお相手も、松吉殿を信頼しているのではござらんか。
   松吉殿の腕ではなく、松吉殿の人柄を信頼しておらんと、そのような注文はしないように思われるのだが。
   やはり、松吉殿も、そのお相手も、互いに特別な感情を抱いているからでござらんか・・・・・・」

  「・・・・・・・・・」

  「・・・・・・云わないほうが良かったでござるかな・・・」

  今更後めたさを感じているらしい浪人に背を向けて、松吉は新たな簪に細工を施すための鑿を探しているフリをした。











返事は「はい」だけ!











 アトガキ
  アニメ1話2話を見て、漫画を買いに走りました。
  そして、松さんに惚れました。でもそれ以上に、話の空気感に惚れました。
  悲恋ですが、悲しくないものを目指してみました・・・・・・

Photo by clef

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